今昔写語こんじゃくふぉとがたり

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倉敷駅前商店街

ゲスト2020-09-21 13:49:34

神戸屋、田中屋呉服店、三宅号、今もあります・・!
大阪駅前再開発・大阪駅(4代目)

ゲスト2020-09-18 16:19:23

新しい写真は、北側のようですね
昭和47年の火災で焼失した校舎が再建された昭和49年の学区内体育祭

ゲスト2020-09-16 12:38:59

ここは岡山市北区寿町の石井小学校です。
旧 国鉄 宇野駅

ゲスト2020-09-13 22:21:47

この古い駅舎が、最愛の人との別れの場所でした。今は、思い出も新駅舎とともになくなりました。ゆかり今でも、あいしてるよ。あっくんより

オヤジ2018-05-01 22:31:34

宇高連絡船と接続していたころの宇野駅ですね。
当時、長く大きかった駅舎は、一帯の再開発にともなって北に移り、信じられないほど短く、且つコンパクトになりました。
折りしも撮影した2018年は瀬戸大橋が開通して30年になります。
広大な材木埠頭もなくなり、付近には往時を偲ぶものは何も残っておらず寂しい限りです。
淡路島

ゲスト2020-09-11 20:38:30

淡路島の岩屋港から少し南に下った絵島の南側と思います。投稿された近代の写真の左側の鳥居の神社と思いますが、淡路島出身の渡哲也さんと渡瀬恒彦さんのお名前の刻まれた石柱があったと思います。 ノジ マリン
北上川河口石巻

ゲスト2020-09-10 23:20:34

説明は石巻との事ですが、おそらく松島ではないでしょうか。写真左の特徴的な形をした島が仁王島、写真右奥に岩肌を見せているのが大藻根島だと思います。海上から撮影されたものだと思うで、まったく同じアングルを狙うのは結構大変かも知れません…。
お茶の水

ゲスト2020-09-07 10:09:47

ニコライ堂(東京復活大聖堂)と御茶の水橋が正面に見えていますので、現在の順天堂大学のちょい東、
神田川が南西に曲がったあたりを船の上から撮影したものでしょう
東京都港区六本木

ゲスト2020-09-04 14:26:09

港区六本木ロアビル交差点、東洋英和女子近く
船場・問屋街の久太郎町

ゲスト2020-09-04 07:48:40

昭和13年8月に南久宝寺通りは幅7間、両側に歩道を有する道に拡張されました。この写真はそれ以前の南久宝寺通りと推察します。 左手前の「帽子問屋の栗原」は、今も事業をされている「株式会社栗原」と同じと思われ、平成17年ごろまでは南久宝寺町2-5-2で株式会社栗原商店(帽子総合卸)として店を構えておられました。 撮影場所はそのあたりと思います。 写真は西から東を向いて撮られているので右奥には南久宝寺町通りと堺筋の南西角に有った貫々堂製衡所(度量衡器製作販売)の立派な時計塔が見えます。このモダンなビルは昭和20年3月の大阪大空襲にも耐え抜きましたが残念ながら昭和50年代初頭に無くなり、今はセンバフジイビルが建っています。 ちなみに右手前の早野商店(釦・服飾手芸卸)は博労町1丁目に移転され、その後平成20年ごろには見かけなくなりました。
陸橋の心斎橋の撤去工事

ゲスト2020-09-01 15:59:26

三宮そごう百貨店

ゲスト2020-08-30 15:46:40

そごうの経営譲渡により、現在は阪急百貨店となっています。
佃島

ゲスト2020-08-30 14:21:37

いやぁ、懐かしいですねぇ。こんな風景ありましたねぇ。私が18の頃の写真という事ですね。私は隣町の勝どきで生まれ育ちましたが、佃島にも中学の友人たちが大勢いてこの写真が撮られる4~5年前はよく屯していたものです。撮影場所の特定は難しいですが、たぶん佃小橋を広場方面に向かって渡り、すぐに左に曲がるとその先が人一人通れるくらいの路地でドン突きになる小道があるのですが、そこを撮ったものではないかと思います。昔はこんな風に軒先に洗濯物や干物を干したりしていた家がいっぱいあったんですがね。遊んでる子供たちも今ではもう50前後の初老になるんですね。齢は取りたくないなぁ。
八日市駅/近江鉄道本線・八日市線

ゲスト2020-08-30 00:24:26

この頃は、まだ戦前仕様の電車が走っていました。木枠の窓で、ちょっと持ち上げて手を放すと、ガコーン!!と開く仕組。床は木製でシートはでこぼこ。電車がガチャコンと揺れる度に、座っている乗客もバウンドする。ガキだった私たちは「囚人列車」などという酷い呼び名を付けていました。私は密かに、囚人列車の機械油の匂いが好きでした。
八日市駅/近江鉄道本線・八日市線

ゲスト2020-08-30 00:12:47

懐かしいですね~。向かって左側の入口から入ると、結構大きな売店がありました。駅舎内にはたくさんのベンチがあり、そのベンチにも壁の至るところにも、地元のお店の広告が貼ってあって、賑やかな雰囲気を漂わせていました。売店の奥の改札寄りには、一時立ち食いうどん屋さんがありましたよ。1960年代の終わりのことです。私は出汁のいい香りが気になって、一度食べたかったんだけど、「立ち食いは行儀が悪い」という母の言い分で食べさせてもらえませんでした
上京区千本通一条上ル東側に存在した映画館千本座

ゲスト2020-08-26 23:39:25

現在の写真の場所も、元映画館でしたが「昭和館」という名前でした。

ゲスト2020-06-27 20:36:00

現在の写真(スギ薬局)は千本一条より大分南で、千本上長者町辺りかと思います。
親不知

ゲスト2020-08-25 17:12:09

糸魚川市大字歌か、外波辺りか。

ゲスト2020-08-25 17:10:09

親不知子不知(おやしらずこしらず)の天険。
昔の路は、この崖下の波打ちぎわ、今は浸食で、海に没して、僅かな玉砂利の波打ち際も無い。
源平の頃、戦に赴いた夫に、まだ見ぬ子を会わせようと、旅の途中この危険な天涯をとおるが、
子は波にさらわれてまう。
「親知らず子はこの浦の波枕越路の磯のあわと消えゆく」平 頼盛
あるいは、危険な波打際を通るとき、親は子を忘れ、子は親を顧みるいとまがなかった。
\"親不知子不知\"の地名の由来とされる。
矢田駅/南大阪線

ゲスト2020-08-22 20:48:10

高架化工事に先駆けて、矢田駅の待避線は、河内天美駅と今川駅に代替(天美に下り待避線新設、今川に上下兼用通過線新設)されて、相対ホーム2面2線化されました。

ゲスト2020-03-06 14:33:10

この写真は、南大阪線・矢田駅上りホームから、下り河内天美方面を写したものです。
矢田一号踏切があり、本線上での折り返し運転のための、渡り線が確認できます。
昭和50年には下り線が、翌年には上り線が高架になりました。当時は、阿部野橋駅を発車した列車の行き違い設備が矢田駅までなく、ラッシュ時運転には支障を
きたしたと聞いています。
上本町の大軌ビルディング

ゲスト2020-08-16 22:32:27

現・近鉄の大阪上本町駅です。
東品川橋

ゲスト2020-08-13 22:03:02

橋の向こう側に見えている倉庫のような建物。今はここに野村不動産天王洲ビル(元、JAL本社ビル)が建っています。
今、この付近に住んでおり、犬の散歩によくとおっています。
今は、この右奥の方が埋め立てられ、タワーマンションだらけになっています。
中之島公園・界隈

ゲスト2020-08-09 21:06:41

大阪市北区天神橋の西側歩道から撮影された、画面左側に中之島公会堂、画面右上に大阪高裁のドームとその右側に大阪弁腰会館
手前は阪神高速道路です、